“Fahrenheit 451” の道

過去数年の間にほんの数回しか通っていない、という道がある。数回しかないがゆえに、通った時どんな状況だったか、誰と何を話したかは比較的よく覚えている。

 
 
昨年、友人と一緒の時に、その道を久しぶりに通り、映画の話になった。その友人は、特に映画好きというわけではない。外国語の勉強というか忘れないために見ることはある、という。それで、いつどこでなんという映画を見た、という話の流れで、友人が「Fahrenheit…… なんとかっていうやつ、忘れたけど。それも見た」と言った。
 
 
タイトルに Fahrenheit? だったらそれは “Fahrenheit 451” だろう。『華氏451』。フランソワ・トリュフォーだ。それを聞いた私が目の色を変えないはずがなかった。
 
 
私の周囲にはなぜか、いわゆる映画ファンがほとんどいない。そう呼べる人は、片手の指で数えるにこと足りる、なおかつその片手の指さえ余る、という人数しかいない。だから、たとえばこうしてネット上に書けば、何処かの誰かには必ず通じる映画の話も、日常会話においては悉く通じない。トリュフォーの映画についての話など、それこそ通じたためしがない。
 
 
そんな調子なので、特に映画好きということもない友人の口からトリュフォー作品のタイトル (の一部) が出、思わず前のめりになった。本が燃やされるシーンがあるだろう、それはトリュフォーの作品で、その監督が好きで… と口走る。いや、そんなシーンがあったかどうかは忘れた、監督も全然わからない、と答える友人は、急に勢いづいてトリュフォートリュフォーと言うこちらに若干気圧されているようであった。
 
 
私にしてみれば、トリュフォー映画の話をできたことが (たとえ相手が映画好きでもなくトリュフォーファンでもないとはいえ) とにかく嬉しかったのだ。“Fahrenheit 451” のことを言っていると気づいた瞬間から嬉しかった。日常会話で、相手の口からトリュフォー作品のタイトル (の一部) が出たことが。とはいえ、特に映画好きというわけでもない人相手に無理に聞かせる話でもないので、トリュフォーについて語りたい衝動はそこで抑え、とりあえず歩いた。
 
 
そのままその道をいくと、見覚えのある店があった。その時より3年ほど前に、5〜6人で一緒にそこを通った際に立ち寄った店だった。懐かしいといって、その話を友人にした。へえ、じゃあ入るか、と言うので3年ぶりにその店に入った。和風の雑貨などを売っている店である。店内の様子も変わっていなかったので、友人に向かって懐かしい懐かしいと一頻り言った。店内をぐるっと見、このあたりで3年も変わらずに店をしているとはやり手だと友人が言うのを聞きながら、店をあとにした。
 
 
その道はまた、別の友人と一緒だった時にも通ったことがあった。その時にはアルコールが入っていたせいもあり、ずいぶんふざけて歩いた記憶がある。ふざけて歩いたその時と、“Fahrenheit 451” のこの時、目的地が同じエリアにあった (だから同じ道を通ることになったわけだが)。しかし、通る時間が違う、話した内容が違う、置かれた状況が違う。同じ道でも、懐かしいといくら言っても、なにごともついには変わってしまうものである。
 
 
この道を最後に通ったのは、今のところ、“Fahrenheit 451” の会話の時である。次にこの道を通る時にも、既に何かしら変わっていることであろう、“Fahrenheit 451” の時とくらべて。その時にはまた、この道にまつわる別の記憶が加わることになる。次に通るのがいつになるかはわからないとはいえ。ただ、“Fahrenheit 451” の会話、いや、結局映画の内容にもろくに触れなかったわけだが、それでも今のところその道は、“Fahrenheit 451” の会話と、もっとも強く結びついた道である。だから私にとっては、そこは《“Fahrenheit 451” の道》 だ。

追加 (あとからのことについて)

始まりの理由が些細なことだと、その印象に引っ張られてその事柄全体をも些細なことだと思われがちだけれども、必ずしもそうとは限らない。


何を言いたいかというと、だ。些細な理由で始まった嫌がらせであっても、その嫌がらせが《3年以上も続く》ということは《理由と同じ程度の “どうでもよさ” 》じゃない。《なぜこんな些細な理由でここまでされなきゃいけないんだ》という理不尽さ、とばっちり感と相俟って、される側にとってはじゅうぶんストレスの原因となる。

 

これについて、前回までに書いたこと

antoine.hatenablog.jp

 

前回でこれについて書くのは最後にすると書いたのになぜもういちど書いているかというと。これを書いたことについて、“あとからグチャグチャ言う” だの “後出しジャンケン” だのと書かれたり、誰それが何々と言っていたよという話が、やはり耳に入ってきたりするためであるが。


そう “思われている” だけなら、別に構わない。基本的に、腹の中だけならなんと思おうとその人の自由である。だから “思われている” だけならこちらだっていちいち反応しないが ( そもそも思われているだけならこちらからはわからないのだから反応のしようもない )、書かれたりなんなりすれば別だ。しかもそれが、あえて名指しを避けていたりしたら、“3年以上嫌がらせを続けた人と同じやり方じゃないか” ぐらいのことは私だって思う。


で、今後こういうことで我慢するのはもう絶対にやめよう、と決めたので、今までの自分なら我慢したであろう場合でもいちいちそれを拾い、思っていることを書いていくことにした。《我慢しない訓練》の一環である。


これまでなら、何か言われ(書かれ)ても、その場の状況とか波風を立てないためにという理由で、我慢してきたわけだ。が、そのせいで “言いやすい相手” という印象を人から持たれている ( =あまりそう思われすぎると、場合によっては相手の発言が悪い方へエスカレートする )という感じが、正直言うと昔からあった。


ということで《我慢するな》《説明/反論はすぐしろ》という決め事を自分に課した。とにかく、我慢するくせがすっかりついてしまっているので、無理矢理自分を鼓舞し、意識的にでもそういうふうにしていかないと、急にはなれない。最終的には、“こいつに何かひとことでもケチをつけようものなら10倍くらいになって文句が返ってくるから、もう何も言わないでおこう” と人から思われるくらいになるのが目標。


( なにしろ、3年以上続いたやつあたりに対し、ここへきてとうとうぶち切れたのだ。2度切れるも3度切れるも最早同じである。サスペンス映画の犯人が「ひとり殺すもふたり殺すも同じ」と言う、あれだ。我慢したせいでもやもやが継続するくらいなら、さっさと反論したほうがいい。)


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で、前回までに書いたことについて。《3年以上続くやつあたり/嫌がらせ》が、とにかくもう我慢できなかったから書いた。そのぐらいしないと、やつあたりをやめてくれないと思ったからだ。だから、“なにもこんな書き方しなくてもいいのに…” と、読む人によってはひくかもしれない書き方を、わざとした。


たとえば。仮に、“何もここまでしなくても…” と(両者を)知っている人から思われ、(私を)敬遠されたとしても、その人はきっと、ただ黙って離れていくだけ。それを理由に3年以上嫌がらせなんて、当たり前だがふつうはしない。だったら、読んだ人がひくぐらいの書き方をわざとしてでも、実際に3年以上続いている嫌がらせがなくなるほうが、よっぽどいい。敬遠されるかもしれないことについては、残念でも諦めるしかない。そのどっちがしんどいか、だ。


“そのぐらいしないと、やつあたりをやめてくれない” というのは、実際その通りであったわけだし。なにしろ、まさかこんなこといつまでも続けるわけがない、そのうちやめるだろう、と思ってされても我慢していた当時は、結局やめてくれなかったわけだ。そのまま、まさかの3年超え。


それが、今回書いて初めて、向こうがそれを認めたというのは、これまで向こうが《反論してこない相手だから自分勝手が通ると思っていた》《この分ならやつあたりを続けても人にバラさないだろうから大丈夫だと思っていた》ということの表れだろう、と。


こういうところからも、やはり “波風を立てないように” となんでも我慢していればいいというものでもない、と思った。


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で、こちらがいくら我慢していたとしても、悪くなかったとしても《今になって言った》ということ自体をよく思われない場合もあり得る、とは思っていた。


たとえば、前回までに書いたことをどうでもいいみたいに言う人がいたとして、だ。あくまでも例えだが、その人が「3年ぐらいじゃ我慢のうちに入らない、10年我慢してから初めて “我慢した” と言え」と言ったとする。これはあくまでも例えである、例え。そういう理由で「3年以上嫌がらせされたぐらいのことどうでもいい」と言われたとしたら、はぁそうですか、と答える。別に “10年我慢” に同意したわけではない。ただ、この人はそういう考えなんだな、とは思う。“10年我慢が当然” という感覚の人が “3年くらいたいしたことない” と言ったとしたら、いい悪いではなく、意味はわかる。


しかし、前回書いたことを “後出しジャンケン” だなどと書かれた場合は別だ。


後出しジャンケン。どちらが何を出すかお互いわからないという、もともとは公平な状態であるはずのジャンケンで、片方が相手の出方を見てから自分の手を決める、というのが後出しジャンケンであるが。今回私が書いたことをそれに例え、“あとからグチャグチャ言う” だの “後出しジャンケン” だのと書かれたわけだが。


後出しジャンケンは、上に書いたような “公平なジャンケンができる状態” がまずあってこそ、初めてできるわけだ。では、片方がそれを我慢しているのをいいことに、もう片方が自分勝手な理由で一方的に嫌がらせを続けている状態を公平と言えるかどうか、であるが。言うまでもなく、一方的である時点で公平じゃないことは明白。つまり、“公平なジャンケンができる状態” じゃない。つまり、だ。一方的に嫌がらせをしていた人に対して、やられた側が我慢しかねて反発することを、後出しジャンケンとは言えない。


そしてそれを書いた人が、私を名指ししてはいないわけだ。だったら断定できないだろう、と思われるかもしれないが、私とて何も、それっぽいことを書く人を誰彼なしに闇雲に疑ってかかっているわけではもちろんない。十中八九、私が書いたことを言っているな、と判断できる要素 (本文以外にも) が揃っていたからこそそう思った。残りの “一” は、名指ししていない限りは実際断定できない、だからしない、というだけのことだ。腹の中では間違いないと思っている。そして、偉そうなこと言うわりに名指しはしないとはこれまたずいぶん卑怯だな、とも思っている。腹の中で。


この人は、上に書いたようなわけでこの後出しジャンケンという例え自体がそもそも成り立たないことには気づいていないのだろうか、名指しせずにただ気に入らないとだけ書くのが件の3年以上続いた嫌がらせと同じやり方だということには気づいていないのだろうか、そのやり方で偉そうなことを言っているご自分についてはどう思っておられるのだろうか、などと考えた。


で。ここはもう1回私が切れとけ、と思った。最初のほうにも書いたが、1度ぶち切れたら2度切れるも3度切れるも最早同じである。《我慢しない訓練》が必要、というのもあった。それで、その 後出しジャンケンというのに反論した。もちろん《直接》の返信で。そりゃあ、切れたといったって言葉遣いには気をつけたけれども。


とりあえず、こちらは直接返信したわけだ。ということでそのあと、それへの返信がこないか、今か今かと待った。自分に《我慢するな》《説明/反論はすぐしろ》と課したわけだし、この時は最初にぶち切れた時のテンションも比較的保ったままでいる。それで、さあ返信くれ、まだか、さあくれ、どんな内容でもいい、さあさあ、と手ぐすね引いて待っていたのであるが ( ちなみに、その日ある映画を見た際のテンションもそのまま保っていた )。


が。後出しジャンケンの人からの返信はなかった。別に「あなたのことを書いてるんじゃないですよ」という返信でもよかったのであるが。もしもそれが、本心ではなかったとしても、だ。なにしろ、人を批判する時に名指しをしない、というのは、批判した相手から反論や説明をされた時に「あなたのことを書いてるんじゃないですよ」と言うための逃げ道としてであろうと。だからこそ、違いますよ、という返信がくることだってこちらも最初から想定しているのだから、たとえそれがその人の本心ではなかったとしても、言われればそれを否定まではしない。名指ししていないという点では、それも成り立つわけだし。だから「そうですか、違いましたか」云々と返すだろう。腹の中では “そうだと判断できる要素が揃ってたんだからそれはないだろう” と思っていたとしても、だ。結局、名指しせずに書く/書かれると、そういうことになるわけだ。


だからそれこそ、たとえ嘘の内容の返信でもよかったのだが、なかった。ただでさえ、名指しをしないという《反論封じ》をしていたのだから、そこまでしたのに結局反論された限りはもう正面から返信したらいいんじゃないですか、と思ったが、なかった。可能性としては、私からの返信をそもそも読んでいないとかいうことも、もちろんあり得る。


が。こりゃ私の最初の返信自体は読んだんだな、と思われる反応が、文章による返信ではないものの、わりとすぐにあった。


ということは。私の最初の返信は読んだんだろうおそらく。だったら、それに対して「あなたのことを書いてるんじゃないですよ」という返しだってしようと思えばできただろうおそらく。しかしそれはなく。


こちらは真正面から返信したにも関わらず、そのような反応 ( =私からの返信を読んだのだろうということはわかったが、文章による返信ではない、別の反応があったのみ ) だったので。


つまりは「あなたのことを書いてるんじゃないですよ」とは言い切れなかったんだな、と こちらで勝手に判断した。それともあれか、後出しジャンケンという例えがうまくなかったとようやくお気づきになったか、そしてもうほかの例えも出てこなかったか、と こちらで勝手に判断した。


このような ↑ 私の言い方はいくらなんでも失礼ではないか、と思われるかもしれないが、ここでわざわざこんな言い方をして、何を言いたいのかといえば。結局は、何も言わなければ勝手なことを言われる、ということだ。↑ こんなふうに。


これ ( =何も言わなければ勝手なことを言われる ) はなにも、後出しジャンケンの人のことだけを指して言っているのではなく、私にもあてはまることだ。だからこそ、思っていることをガンガン言うとか《我慢しない訓練》とかをしようとしているわけだ。これまでなら、たとえむかついても、それを言えないからというよりは、相手が名指しを避けるいう《反論封じ》をしているせいで仕方なく我慢したであろう “あとからグチャグチャ言う” “後出しジャンケン” という言い草にわざと直接反論したのも、訓練のひとつだ。最終的に、“こいつに何かひとことでもケチをつけようものなら10倍くらいになって文句が返ってくるから、もう何も言わないでおこう” と人から思われるくらいになるのが、目標なわけだから。


で。3年以上続いたとか我慢したとかどうでもいい、嫌がらせされたとかどうでもいい、と言う人がなぜそう思うのか、理解した。それが “平気な人” だ。


平気と言ってもいろいろある。“自分も同じような嫌がらせをする側かもしれないから平気” “何年嫌がらせされても我慢できるから平気” “人から嫌がらせされてもなんとも思わないから平気” 等。そのような人であれば、私の書いたことなどそりゃあ “どうでもいい” となるだろう。なっても不思議じゃない。でも私は何年も我慢するのは平気じゃないし、あんな理由で人から3年以上嫌がらせされ続けことも平気じゃない。そして、ここまでするような人にはこちらもそれなりのことをしないと、へたしたらまだまだ続くかもしれない、と思った。だから書いた。


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ちなみに。名指ししないのは《反論封じ》だと書いたが、私とて、すべて何もかもをきっちり直接の返信にすべき、などとは言っていない。たとえば、世間話的なことや趣味に関する話などで、相手に直接返すほどではないことだからとあえて返信にせず名指しもせずに書いたとて、それでやり取りしている本人たちの間で通じているならば別に問題はない。その手の話なら。


そういうことではなくて、批判や文句こそ直接がいい、と言いたいだけだ。《当事者にとっては何について書かれているのか明白なのに、事情を知らない人にはわからないようにするためあえて名指しされておらず、名指しされていなければ表立っての反論もしづらい》という状態でやつあたりを書かれてきた者としては。


だから、たとえ文句でも、名指しあるいは直接の返信であれば、もし私に向けて書かれたとしても腹は立たない。「なんて真摯な態度だ」と思う。それはこちらにとって《説明/反論する機会ができた》ということだからだ。そしてその人は、反論をくらうかもしれないのに真っ向から文句を言ってきているわけだ。ほのめかしなどせずに。それに対して、腹を立てたりするわけがない。


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ところで今回のこれは、中盤にある “さあ返信くれ、まだか、さあくれ、どんな内容でもいい、さあさあ、と手ぐすね引いて待っていた” 時のテンションにわりと近い状態にまで自分を持っていって書いた。何か失礼でもあるかのように読める部分があるとすれば、たぶんそのせいだ。とりあえず、《我慢しない訓練》は継続中である。

なぜ今書いたか

前回書いたことについて。

 

antoine.hatenablog.jp

 

“なぜ今書くか等の理由も書いておくほうがいいとなればそれは次回にでも書く ” と前回の冒頭で言ったので、それだけはいちおう書いておくことにした (以下、文中における人物の呼び方は前回と同じ)。


とにかく、長いこと我慢した。ことの発端は2012年。言うならもっと早くに言えばいいだろうものを、と思われるかもしれないけれど、ではなぜそんなに長く我慢したかといえば。


ひとえに、私が何も言わなければほかの人にはわからないことだったから、というのに尽きる。あえて言ってまで波風立てないほうがいいだろう、というのが まず あった。このことに限らず、人との間に波風を立てるのが嫌だ、という意識が昔から強い。それも、言いたいことがある場合にそれを言うか言わないか決めるには、自分の気持ちよりまず状況などを優先する。つまり、言えないわけではなく、“今この状況では言わない方がいい” と思って我慢することが多々ある。だから、このこともずっと我慢していた。


はじめに問いただされて説明し、その説明にいったんは納得したはずのcさんがふたたび怒り出した時、まさかそれがその後も続くとは思わなかったので、我慢した。一度で済むことと思ったからこそだった。のちに、ことあるごとに断続的/遠回しとはいえ嫌味ややつあたりがあった際にも、いくらなんでもそう長くは続くまい、そのうちやめるだろうと思い、我慢した。ほかの人に対して何か吹聴されたらしき時にはさすがにかなり腑に落ちなかったけれども、その時も結局、我慢した。そもそもの発端は★さんと私が会った会わないという話だったわけで、そのわりには★さんと私が顔を合わせる機会がなくなって以降もやつあたりがあり、これはもはや、当初の理由を逸脱してただ単に負の感情を私にぶつけているだけではなかろうかと思いつつも、我慢した。なにも、その状態で別にいい、と思っていたわけではなく。波風を立てたくないというただその一心で、我慢した。


とにかく、我慢して我慢して我慢して我慢した。しまいに、“いったいいつまでやつあたりが続くのか” と、我慢できなくなった。


とはいえ、もうこれ以上我慢できない、となったのは、実際のところは昨年である。件のSNS的なものにて、またもや (遠回しとはいえ) 嫌味を書かれた時のことだ。いくらほかの人にはわからないような書き方だとはいっても、何について言っているのかがわかってしまう当事者 (=私) にしてみれば、聞き流せないような表現があった時のことだ。でもその時は、我慢できないからはっきり言おう、というのではなく、我慢できないから、そのSNS的なものを使うのを私がやめた (一時)。


我慢できない、となって一時そのSNS的なものをやめ、とはいえ私がそのSNS的なものを使っているのはもともとまったく別の目的であったから、数ヶ月経って、さすがにもうこういうことはなくなるだろう、と思い再開したら。断続的ではあるけれども、その後もまた、遠回しなやつあたりがあった。そのSNS的なものの使用を一時やめる前よりもさらに、“もう我慢できない” と思った。


そうやって、我慢できない、と さらに強く思ったにも関わらず。それが昨年後半のことであるが。それでも結局、また抑えた。波風を立てたくない、それに加えて、“めんどくさい人” と思われるのが目に見えていたからだ。


なにしろ、ほかの人には知られていないことなわけだ。2012年からやつあたりが続いていたとか、それをずっと我慢してきたとか、ほかの人の目には、そんなことわからない。そういう過程をまったく知らないほかの人から見れば、ずっと続いていたことというより、突然数年前の話を持ち出したかのような印象に映るだろう、と。つまり、私のことは “古い話を唐突に蒸し返すめんどくさい人” にしか見えない、と。それは容易に想像がつく。しかし実際は、断続的ではあっても続いていたわけで。それで、もう我慢できない→抑える→やはりもう我慢できない→また抑える、を繰り返し。


最終的に、もうだめだ本当にこれ以上は我慢できない、となった。波風は立てたくないし、そのSNS的なものの上でやり取りのある人たちから “めんどくさい人” と思われて敬遠されるのも残念だ。残念だけれどもしかし、ここまで我慢した上でそれでも我慢できなくなってしまってはもう、波風が立っても “めんどくさい人” と思われても仕方がない、今後もやつあたりが続いたとして、それを我慢し続けるのと ここではっきりさせて “めんどくさい人” と思われるのとどっちを取るかといったら、“めんどくさい人” と思われるほうを取るしかない、となった。


(ちなみに、今後もやつあたりが続くかどうかはさすがにわからないのではないか、いくらなんでもそんなには続かないのではないか、と思われるかもしれないが。私だってそう思った。そう思ったからこそ我慢した結果が、これである。私の立場からすれば、へたしたらまだ続くかも、と疑いたくもなるというものだ。)


それで、2012年から (断続的とはいえ) 続いたそういうこと (=遠回しな嫌味、やつあたり等) を今後一切やめてもらうには、詳細まで あえてはっきり書くぐらいしかないだろう、となった。せめてこちらの言い分もどこかで言っておかないと、完全に一方的なままになってしまうと思った、というのもある。だから書いた。これで “めんどくさい人” と思われたとしても、もう我慢できない以上は致し方ない、と思いながら書いた。


このことがもし、cさんがやつあたりなどの行動には移さず、内心で私を嫌っているだけだったとしたら。この人とは合う/合わないとか、そんなことは誰しもある。だから内心で思っているだけなら、それがどんな理由で、どんな感情であろうとも、一向に構わなかった。人がただ内面に持っている感情にまで、とやかく言う気などないからだ。ただ思っているだけなら、それがどんな感情であれ他人がどうこう言うことでもない。どうしても合わない人とは、それなりの距離を取って、いい意味で “やり過ごして” いけばいいわけだし。


が、ただ単に “そういう感情を持っている” というだけにとどまらず、実際の行動に移されれば、話は別である。このことに関しては落ち度はなかったと思っている私としては、やはり腑に落ちない。それが、ことの発端だけでなく、その後も続いたから尚更だった。最初の一度で終わっていれば、その場限りの我慢で済んだだろうけれど、続けばその分我慢も長引く。結局、やつあたりが長く続いた、というのがダメだった。最初のことだけで終わっていれば、私だってわざわざここまで書きはしない。


件のSNS的なものにて日頃やり取りしてくれている人たちに、自分自身について “めんどくさい人” という印象を持たれるかもしれないのに今回これを書いたことが果たしてよかったのかというと、いったいどうかとも思う。思うがしかし、致し方ない。いわれのないやつあたりをされ続けることにはもう、つくづく辟易した。


人から何を言われようが何を書かれようが、一切のことに我関せず、と受け流せるような心の広い人も、世の中にはいるのだろうけれど。私はそこまで心に余裕のあるタイプじゃない。なんでも受け流せるような人間ではないのだ。それでも、私の側に落ち度があるとなれば、文句を言える立場でもないからと、我慢をし通したかもしれないけれども。落ち度がないと思えば、それは当然、受け入れ難い。受け入れ難いと思いながらも無理矢理我慢して我慢して我慢して我慢して、それで最後まで我慢し通せるかというと。それはやはり、無理な話であった。無理な我慢の行く末は “爆発” である。本当は、こういうことを我慢できるタイプではないのだ。ただただ、波風を立てたくないがゆえに無理矢理我慢してきた、というだけで。我慢のし過ぎに、いいことなどひとつもない。いらぬ我慢はしないほうがいい。


(その人たちがこれを読んだとすれば、であるが) 私のことを実際に知っている人や、件のSNS的なものにて日頃から私とやり取りしてくれていた人たちから、“めんどくさい人” と思われて敬遠されるだろうことは予想した上で書いた。さぞかし長いと思われただろうが、(断続的とはいえ) およそ3年以上続いたやつあたりに関しておよそ3年以上続けた我慢を、全部と言っていいほど吐き出したのだ、致し方ない。


わざわざここまでしたのだから、これでもう、やつあたり的なことはすべてやめてくれるだろう、と思ってはいる。それを一切やめていてくれる限りは、これにてこの話は終わりだ。今後、一切何もない限りは。

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受け入れられないものは受け入れられない

今年から、“空気を読まない” “本来しなくてよかったはずの我慢はしない” ことにしている。なので書く。なぜ今書くか等の理由も書いておくほうがいいとなればそれは次回にでも書く (今回そこまで書くとなると、いくらなんでも長くなりすぎるため)。


この話に出てくる人物を、文中ではアルファベットで呼ぶ。これを書いている私はA、ということにする。今これをはてなブログに書いているのだからはてなIDの頭文字を使うことにした。もうひとり出てくる女性は、京都のcさんである。そのほか、男性がひとり出てくるのでその人は★さん、友人女性らは△さん▽さん、などとする。


私がcさんと直接知り合ったのは、2012年1月、大勢が来る集まりでのこと。その後何度か会う機会があって、その年の3月、数人で出かけるという時にcさんから声がかかった。その際cさんが、以前から知っているという★さんのことも誘っており、この時に私も★さんと知り合った。つまり、私が★さんと知り合ったきっかけはcさんである。この時に誘われなければ、★さんと知り合う可能性は皆無ではなかったかもしれないがそのままなかったかもしれない。のちのcさんの反応を思うと、そもそもこの時に私に声をかけなければよかったものを、とつくづく思われてならないのであるが。


とりあえず、2012年3月には★さんと知り合ったわけである。その後、知人友人のひとりとして、何人かの人と一緒だったり、あるいは都合がつかずに人が集まらなかった場合にのみ1対1で、何度か顔を合わせる機会があった。


cさんのことは、SNS的なもの(h)の上でも知っていた。ご存知の通り、SNSというものは、その日どんな行動を取ったかがほかの人の目にもわかるものである。


私が★さんと顔を合わせる機会があると、そのSNS的なもの(h)でのcさんの反応がいつもと違う、ということにある時気づいた。気づいたが、まぁ気のせいだろう、と思っていた。そのうち、はっきりとわかる反応があったのだが、こちらが何か言うことでもあるまいて、と思いそのままにしておいた。


そうやって私に対し距離を置いていたcさんから、2012年7月、話したいことがあるとのことで、cさんの家に招かれた。7月の京都といえば猛暑だ。8のつく日であった。話したいことと言われても、別に何か一大事かと思ったわけでもなく、軽い気持ちで行った。


以下、cさんから訊かれたことと私が答えた内容、cさんの言い分など。


まず、とあるイベントごとがあった際に★さんと私が1対1で会った、ということについて、なぜふたりだったのか、と訊かれた。が、実際のところ、なにもそれは★さんと私がふたりで会う約束をしたわけでもなんでもない。イベントごとゆえほかの人も誘おうとしたが、平日だったために当初は人が集まらなかっただけである。仕事が終わってあとから合流した人もいたので、★さんと私しかいなかったのはその集まりの前半のみ。


その時のことを訊かれたので、cさんにもその通り説明した。cさんは、その頃足を怪我していて行けず、★さんとはいつも一緒に行動していた自分が行けなかったことが残念だった、★さんとAが一緒だったことがいやだった、と言う。


また、そのイベントごとの後日、何人かが来る席に★さんと私も同席する機会があったのだが、その時Aはなぜ行ったのか、なぜその席に呼ばれたのか、とも訊かれた。イベントごとの当日、合流した人たちも含めこんど食事等に行くがよかったら来ないか、とちょうどその場にいた私にも声をかけてくれたので行った、と答えた。その日のことは、自分は結局行けなかったのになんでAは呼ばれたんだろう、なんでAは行ったんだろう、とすごく気になっていた、とcさんは言う。ごく軽い気持ちで参加した席のことをそんなふうに思われていたのか、という、私にしてみれば「そこまで?」と驚くような流れであった。


結局、cさんがこの時もっとも力説したのは、以下のようなことであった。


『私と★さんは、★さんとAが知り合うよりもっと前からよく知っている。入院した時にはお見舞いに来てくれたし、よく一緒に出かけた。いつも一緒で、私と★さんが付き合っていると思っている人もいた。そのぐらい仲がよかった。でも私には彼氏がいるから、★さんに対して恋愛感情はない。一緒にいて楽な友達。ただ、彼氏と一緒に住むのだと伝えてから★さんと会いづらくなり、しかも足の怪我も重なり、みんなが集まる時に私だけ行けず、疎外感を感じていた。そんな時にAが★さんと会っていたので、いやだった』


ということであった。


そんな話になるとは思っていなかったので面食らったが、要するに、★さんに対しての《独占欲》が極端に強いのであろうと。それはわかった。それはわかったがしかし、恋愛感情はない、と本人が言い切るところがよくわからない。それがなくて果たしてこんなにこだわるものだろうか? と思えて仕方なかったのである。しかしとにかく、cさんはそのような言い分であった。


私としては、少なからず驚いた、というのがまずいちばんである。私の感覚でいうなら、誰それと誰それが会うのがいやだ、それによって疎外感を感じる、という感覚は、あったとしても学生さんくらいまでであろうと。なんとなくそんなイメージであった。恋愛感情がない、というならなおのこと。しかしこの時点で、cさんも私もじゅうぶんにいい大人である。cさんがこういうことを言うとは思ってもみなかったので、驚いたのだった。


さらにcさんは、★さんと私が付き合っていないのかどうなのか、と私に確認する。ないと答えると安心したようだったので、私はこの展開に面食らってはいたものの、とりあえずこれで話は終わったのだろうと思った。★さんと私が顔を合わせるのがいやだということに関しても、ここまでに訊かれたことには全部答えたし、納得してくれたのだろう、と解釈したのである。


で、その後である。★さんと私が顔を合わせる機会はその後もあったが(当時)、どちらにとっても、知人友人のひとりという感覚であった。知人友人と会うことが悪いことだとか、誰かに許可を取らなければ会ってはいけないとか、果たしてどれほどの人がそう思うだろうか。私は思わない。しかし、cさんにとってはそういうことだったようだ。つまり、家に招いてあれだけ釘を刺したのに、その後もまた★さんと会ったAのことが気に入らない、と。どうも、そのようなことになったらしい。


それがわかったのは、冒頭にも書いたSNS的なもの(h)において。★さんと私が顔を合わせる機会があったとわかるような記述のあと、cさんが怒りの気持ちを書いていたので気づいた。私はそれを見て、まさかまだ怒っていたとは、と驚いた。


私にしてみれば、cさんが★さんに対してあれだけこだわりながらも恋愛感情はないと言い切るのもわからなければ、私を問いただして説明を求めその説明にいったんは了承しておきながら、あとになってまた怒り出すというのもよくわからなかった。cさんはいったい、どういう感情をここまでこじらせているのだ、と。


で、考えた。あの時、付き合っていないのかどうなのかと訊き、私がないと答えると安心していたのは、cさんにしてみれば、私から「もう★さんとは会いません」という言質を取ったつもりだったのだろう、と。しかし私にしてみれば、訊かれたことにただ答えただけという感覚で、ここに「会いません」とかいう、もともと付随していない意味まで含めたつもりはなかった。


だいたい、もし私が「会いません」と言ったとしたら、それはそれでおかしな話ではないだろうか。それじゃあまるで、私が何か間違ったことでもしていたみたいになってしまう。しかし、誰かと知人友人としてただ会ったということが、悪いということも間違っているということもないだろうと。そして、会うか会わないか、cさんに許可をもらわなければいけないわけでもないし、cさんに決められてそれに従わなければいけないことでもない。


だから、私は訊かれた内容にのみ、事実を答えた。「今後会いません」とか、ほかの意味は特には込めなかった。しかしcさんは「会わない」という言質を私から取ったつもりでいた、あるいは「もう会うな」ということを遠回しに私に伝えたつもりだったのではないだろうか。だから、★さんとAはきっともう会わないと思っていた、ということなのだろう。つまり、Aお前察しろよ、と。cさんにしてみれば、そういうつもりだったのではないかと思われる。


しかし私にとっては、cさんの《独占欲》の構造こそが、正直言ってよくわからなかった。ただでさえよくわからないその《独占欲》を察しろと、言葉にせずに心中で訴えかけられたところで、いったい誰が察することができるというのだろうか。およそ無理な話であろう。


「★さんと会うな」と思っているなら、はっきりそう言えばよかったのではないだろうか。これは別に、言われれば従う、という意味ではないが。しかし言われれば、その言い分はさすがにどうか、とその場で指摘することが、こちらとて出来たわけだ。★さん云々は関係なく、なぜ私が人から行動を制限されなければならないのかというその一点において、cさんの言い分には納得できない、と。


しかし言われないから、そのような《独占欲》まではわからない私が、cさんの心中を、cさんにとって都合のいいように察するわけもなかった。訊かれたことに答えたらcさんが納得する素振りを見せたからこれで話が終わったと解釈した、ただそれだけである。その後★さんと私が顔を合わせる機会があったとて、よもやcさんが再び怒り出すとは、想像もしていなかった。


それで思った。こういう場合はもう、私からは何も言わないほうがいいのであろうと。なにしろ、説明を求められたからこちらはそれに答えたにも関わらず、こう(=あとから再び怒り出しそれをSNS上に書く)なっている。つまり、何か言われてそれを聞き入れるタイプの人ではない、ということだ。だから、そのままにしておくことにした。cさんのほうがそんな状態では致し方ないと思ったからである。また、ほうっておけばそのうちcさんも適当に流すだろう、とも思っていた ( ら、意外とそうでもなかったのであるが )。


その後も、大勢の人が来る場などで★さんと私が顔を合わせる機会があり、それがわかると、件のSNS的なもの(h)にcさんが、そのことへの不快感を書いたり、場合によっては、遠回しとはいえ嫌味を書いたりするようになっていく。


しかしいくら遠回しな書き方をしていても、やはり当事者にはわかるものである。なにしろ、まず最初に呼び出されていろいろ問いただされcさんの言い分を聞かされた時点で、cさんがそういう感情 (=★さんへのこだわり、★さんと会った私への怒り・不快感) を持っているということを、私はもう知っているわけだ。それを私に対して明らかにしたのは当のcさん本人である。つまり、私の勝手な憶測ではない。


ところで、それが遠回しな書き方であるならば、cさんがこのことについて言っているとは断定できないのではないか、と思う人もいるかもしれない。そういう人はたとえば、遠回しな八つ当たり、嫌味等を言われた/書かれた/された経験がないか、されても気づかないタイプかのどちらかなのではないか、という気がする。とはいえ別に、そういう人に対して「自分が遠回しに嫌味を言われたことがないからわからないだけだろう」と怒るつもりはない。むしろ、されたことなくてよかったね、というくらいのことである。ただ、あなたが経験したことがないことイコールあり得ないこと、というわけではないと。あなたは遠回しに八つ当たりをされたり嫌味を言われたりしたことがないから「そんなの気のせいじゃないのか」と思うのかもしれないが、いざ実際にされてみると、やはりその事柄の当事者には否応なくわかってしまうものである。


cさんが、遠回しでなくもっと具体的に取った行動もある。


cさんと私には共通した知り合いもいる。しかしその人たちはおそらく、cさんが私に対して持っている怒りとその理由を知らない。だから、cさんと私を同じ席に呼ぼうとしたことがあった (それ自体は私はあとから知った)。すると、cさんが「Aのことは呼んでほしくない」と言ったのだという。言われた人も気を遣い、その時は私を呼ばなかったわけだが。それ自体は別にいい。


呼ばれなくてもいいのだが、私にしてみれば、cさんはその時、いったい私が何をしたと言ったのだろうか、と思うわけだ。呼ぶなと言うなら、なぜ呼んでほしくないかの理由も言っただろうと。cさんにとっては、私がすべて悪いということになっている。だったら、私はいったい、どんなひどいことをしたということにされたのか、と。cさんの考え方等を聞いていると、こう言ってはなんだが、★さんと私が顔を合わせるのがいやだから、とか、cさん自身が気に入らないと思っている私と会いたくないから、というように、そのまま本当のことを言ったとは、どうにも思えないのである。


何をしたと言われたかまではわからないが、そもそも「Aを呼ぶな」と言っている時点で、何かあったという印象を既に与えているだろうし、それによって、私が何かしらひどいことをしたふうに、ほかの人たちにも思われてしまっていたとしたら。私の立場にしてみれば、風評被害的な意味での実害を被ったとも言える。そもそもSNS的なもの(h)に遠回しとはいえいろいろ書かれてきたこと自体、私にとってはじゅうぶんに実害であったが。


断続的とはいえ、八つ当たりは続いた。それに辟易していた私は、かつて、女性の友人ふたりに、このことに関する愚痴を言ったことがある。愚痴を言わずにいられない程度にはストレスだったからだ。「Aを呼ぶな」の話では、その分だとおそらくほかの人にもいろいろ言っているのではないかと言われ、そうではないかと自分でも薄々思っていたがやはりほかの人の目にもそう見えるか、と思うなど (「言ってないわけないやん、絶対いろんな人にAのこと言ってるって」とのことだった。まぁ、そりゃそうなるか)。


この女性の友人ふたりのうちのひとり△さんは、cさんのことを知っている。cさん含め大勢来る集まりで、△さんが写真を撮った際、cさんも入れて撮ったが、cさんにとってはその写真が思う通りのものではなかったらしく「こんなことをするなんてひどい」と、抗議の電話が真夜中にかかってきたことがあったという。しかしそれがそこまで気にするようなことだとはとても思えなかったから、人をそんなに怒らせるようなことをしたつもりはなかったのにと思って悩んだ、と△さんは言っていた。


その話の際、△さんが「◇さんもcさんとちょっと…」という話をしたので、思い出した。★さん云々よりも前に、cさん本人から「◇さんはひどい。ひどい言い方をされた」と、私も聞いたことがあった。その後偶然にも、◇さんと直接会う機会があったのだが。会っての印象はというと、明らかにジョークだとわかる言い方をする人だったため、もちろん受け取り方には個人差があるだろうが、正直、cさんにだけ特別ひどい言い方をしたとは思えなかった。どちらかといえば、私も人の言葉は気にするたちである。◇さんがもし、他人に極端に失礼な言い方をする人だったとしたら私もすぐに気づいただろうし快く思わなかったであろうが、そんなこともなく、やはりこれも、◇さんの言動が誰の目から見てもひどいというのではなく、△さんの写真のことと同じように、ただ単にcさんの受け取り方如何だったのではないか、というふうに思えた。


もうひとりの友人▽さん (cさんのことを直接は知らない) は「A、とばっちりやん」と。「男のほうに言えばいいのにね。なんでAに言うのか。そこまでのこだわりって、いったい何なんやろう」と言っていた。まぁ、それは私もそう思っていた。そこまで★さんにこだわるなら★さんに言えばいいものを私に言われても知らんがな、と。それにしても、こういう時に異性のほうでなく、同性のほうに対して敵意が向くというのは、女性に多くあり得る思考回路なのか、それともただ単にcさん個人の考え方ということなのか。cさんの《独占欲》の構造自体がよくわからなかった私には、そこも結局よくわからなかった。


このようにして聞いた話はほかにもあったが、大まかにはそんなところであった。「私だけじゃなかったのか」というのが率直な感想である。確かに、人によって、合う/合わないはいろいろあるだろうとは思うが。しかし、合わなければ八つ当たりの対象にしてもいい、というわけではないことは明白である。


ちなみに、女性の友人らがそんな反応だったので、cさんの言い分みたいなものは男性から見るとどうなのかとふと思い、男性の知人にも訊いてみたことが以前にある (その知人はcさんのことはまったく知らない)。ことの顛末を話すと「女の人っていうのは欲張りやなぁ」と言ってカラカラと笑っていた。まぁ、およそそういう反応が返ってくるところか。


私が何かひどいことでもしたかのようにほかの人にまで話されたであろうことは、私にとっては実害だったといえるし、SNS的なもの(h)の上で遠回しにでも八つ当たりをされることがあったのは、やはりストレスとして感じられた。じゃあなぜその場で反論しなかったのかと思われるかもしれないが、それは “遠回し” であったからこそだ。cさんは私を名指しして書いていない、つまり、私から反論があった時に知らぬ存ぜぬで通せる余地を残してあった。そういう点はなかなかたちが悪いな、と思っていた。当事者である私には、たとえ名指しされていなくても、なんのことを言っているのか察しがつく。しかしそれに対して私が反論すれば、名指ししていないがゆえにcさんは「あんたのことを言ってるんじゃない」と言い訳できる。


そういうところから、cさんは自分の言い分が必ずしも正しいわけじゃないと本当はわかっているのではないかと、いつしか思うようになった。


最初のころ、cさんは自分の言い分がまったく間違っていないと思い込んでいるのかと、私は解釈していた。しかしそれなら、遠回しな八つ当たりなどしなくても、もっとはっきり「Aが悪い」と言えるだろう。なのにそれを言わなかったのは、本当は自分でもわかっていたからじゃないのか、と。つまり、自分の言い分が必ずしも正しくはないとcさん自身わかっているから、私から反論されると困る。だから直接的でなく遠回しに八つ当たりしていたのだろうと。私とすれば、そのせいでかなり長いこと、腑に落ちない思いを強いられたわけだが。


最初の方にも書いたが、SNSを使う人であればよくご存知の通り、個人の行動がほかの人にもわかってしまうことがあるのがSNSである。最初に呼び出されてcさんの家に行った日のことなどは、当時cさんも私も件のSNS的なもの(h)に書いていたが、cさんの考え方や行動から考えると、私と会ったとわかる記述は、cさん側はおそらく削除しているだろうという気はする。そのへんにやはり、自分の言い分を人に知られたくないという意識がはたらいているのではないかと思われるし、あるいは坊主憎けりゃ袈裟まで憎い的な感じで、私のことに触れる記述が自分の過去の投稿に残っているだけでも腹が立つ→だから削除、ということもあるのかもしれない。私は見られても知られても困らないので、2012年7月、8のつく日のその投稿は、そのまま置いてあるが (ここまで書いてきた通り、その日はcさんが納得する素振りを見せたからこれで話は終わったと思ったため、言われた内容までは書き残していないが。招かれて行ったという記述とその時の写真は残っている)。


私への遠回しな八つ当たりは、★さんと私が顔を合わせる機会がなくなって以降もあった (別にcさんに従って会わないようにしたとかいうことではなく、ただ単に機会がなくなっていっただけであるが)。あれだけ★さんにこだわっていたのだから、★さんと私が顔を合わせる機会が既になくなっていたことにも気づいていただろうに、それでも私への八つ当たりが続いたのは、いちど憎いと思った相手のことはとことんまで腹が立つ、ということだったのかなんなのか。★さんと私が会うことさえなければ満足ではなかったのか? と、これもやはり、腑に落ちなかったのであるが。


このような顛末であった。私にしてみれば、そもそもの発端自体、私に落ち度があるとは到底思えないし、たとえ遠回しであっても嫌味や八つ当たりを書かれたりしたこと、しかもそれが断続的とはいえ長く続いたことはやはりストレスとなったし、事実を知らない人に、まるで私が何かひどいことをしたかのように伝わってしまったことは、非常に不本意なことだった。

もっとほかに言いようがある

かなり以前から思っていたことであるが。

 
映画評などを読んでいて、主演の誰それよりも助演の誰それの演技のほうがすごかった、というようなことが書いてある場合に、“誰それ(助演)が誰それ(主演)を食ってる” という表現をされていることがたまにあるのだが、その表現が、結構嫌いだ。 
 
そもそもまず “食う” という言葉が、本来の意味で使う場合も含め、日常的に使われる言葉なわけだし、そういうことで言えば、“食ってる” という表現それ自体は特別目新しいものでもないのかもしれないが、しかしこれが自分にとっては非常にひっかかる表現であるため、なぜこれをひっかかると思い始めたのかという、そのキッカケとなった映画まで覚えている。
 
私がこの表現にひっかかった最初は、アンジェリーナ・ジョリーがアカデミー助演女優賞を受賞した「17歳のカルテ」での演技について、“この作品でのアンジェリーナの演技は、主演のウィノナ・ライダーを食ってる” と表現されているのを読んだ/聞いた時だ。
 
なんともいやな印象の表現であるかのように思えた。まず、片方を褒めるために、もう一方を実際以上に “たいしたことない” と評しているかのように感じられる。片方を持ち上げるためにわざわざもう一方を落とさなくても、褒めたいほうだけを、言葉を尽くして褒めればいいではないか、と思ってしまう。
 
そして、これは読む/聞く人によって感じ方が違うかも知れないが、私の感覚では、“食ってる” という表現自体が下品に思える。食うと言わずに丁寧に言え、などという意味ではない。そうではなく、もうちょっとほかに言いようがあるだろう、と思ってしまうのである。
 
 
映画「17歳のカルテ」に対してこの言い方が使われるのを聞いた/読んだのがキッカケでひっかかり始めたのであるから、この「17歳のカルテ」を例に取るが。
 
まずアンジェリーナ・ジョリーが演じたのは、突拍子もない行動を取りつつも人を惹きつける人物、という役柄だった。もともと強烈な設定である役柄を、技術と独自の持ち味ある俳優が演じ、なおかつ役柄と俳優がぴったりくれば、当然のことながら、観客にとっては魅力的に見えることだろうと思われる。
 
一方、ウィノナ・ライダーが演じたのは、アンジェリーナが演じた人物の突拍子のなさに戸惑いながらもそこに人としての魅力を感じ影響されるが、本人は引っ込み思案であまり主張しない、という役柄だったと記憶している。この場合、強烈なアンジェリーナの演技に対し、ウィノナが抑えた演技をするのは当然ではないかと思われる。
 
つまり、それぞれの役柄の人物設定に見合った演技を、ということで、両者はああいう演技をしたはずであろう、と。確かに、俳優それぞれの個性によって、役柄への向き不向きはあるかとは思う。例えばもし、この2人が演じる役柄を逆にしたら、それぞれの個性を生かしきれないような気もする。しかしそれはつまり、キャスティングの時点で、役柄に合った俳優があてられていることの表れでもあるだろう。
 
そんなふうに、役柄に見合った、必然性のある演技がされていると思うのだが、強烈さが目立つ役柄を演じた俳優 (=この場合はアンジェリーナ) を褒めるために、役柄自体がそういう強烈さのないものであった方の俳優 (=ウィノナ) が “食われてる” と言われなければならないのが、なんとなく解せないのだ。
 
もし、この作品におけるウィノナの役柄を、アンジェリーナ並みに強烈に演じたとしたら、と想像すれば、とてもわかりやすい。もしそうだったとしたら、人物像の設定に合わなくなる上にアンジェリーナの役柄ともぶつかってしまい、不自然になるだろうことは容易に想像できる。
 
つまり、このふたつの役柄と演技は、食ってる/食われてる という関係性じゃない。どちらも、その役柄に見合った演技を求められ、それを目指した結果であろう。
 
 
これがキッカケとなって、以後、俳優の演技が 食ってる/食われてる という表現で評される事に、いくらかの不快感を覚えるようになった。一方の評価を下げたことによる対比でもう一方を褒めるかのような形が、巧い批評だとはどうも思えないのである。こんなことを言うと、文章のプロでもないくせに何をえらそうに、と思われるかも知れないが、しかしそれでもやはり思う。一方を持ち上げるためにもう一方を落とすのはいいやり方じゃない。褒めたいなら、褒めたい対象のために言葉を尽くせ、と。

“趣味” というものについての長らくの考え事

趣味というものについて、人と話す機会があった時、話した内容について思うことがなんやかやとあったりするわけだが、そのわりに、その なんやかやのほうを話す機会というのが案外なく、かと言ってそれを話すためだけに知人友人に時間を取らせるのもしのびなく、ではそのままにしておくのかと言うと、なんだかとてももやもやする瞬間があるので、そのように置きどころのない考え事を、とりあえず文字にして外へ出そう、と思う。
 
 
マニアと呼べるほどまでの知識を持ち合わせないままでそれを「趣味だ」と言うと、たいして詳しくもないくせに、という反応が返ってくる場合があったりする。私はというと、趣味なんてどの程度の詳しさだろうと熱の入れようだろうと人それぞれ、と思うほうである。なにしろ趣味は、好き嫌いばかり言ってはいられない “仕事” ではない。自分の好き勝手だけには出来ない “仕事” ではないのだから。
 
そのように言う人自身が「自分はどこまでもこの趣味を極めたい、知識も半端なものではいけない、常に精進しなければならない」 と思って実際にそのようにするのは、もちろんその人の勝手である。したいようにするのがいいと思う。しかし、違う考え方の人、たとえば、“極める” などというよりただ気楽に楽しみたいだけの人に対してまでもその考え方をあてはめ、もっとこうすべき、ああすべき、と言ったりする場面に出くわすと、少し行き過ぎではないか、と感じることがある。仕事じゃなかろう、と。なにしろ趣味だ。人それぞれ、好きな形ですればいいのではないだろうか。


私の趣味を例にとって書くと。
 
私は映画鑑賞がことのほか好きで、ほかのことと比べてもっとも長きに渡っての趣味であり、なおかつ、ほかのことと比べてもっとも知識があるといえる趣味が、映画である (知識がある、という言い方はずいぶん大風呂敷を広げた風に聞こえるかも知れないが、なにも人様に誇れるほど深い知識があるなどという意味ではなく、あくまでも自分比である。要するに、ほかのことと比べれば映画がまだいちばんマシ、という程度の意味である)。
 
美術館へ行くのも、最近では以前と比べて機会が減りはしたが好きだ。工芸、彫刻などを見ることもあるにはあるが、もっとも好きなのは絵画作品を見ることだった。
 
最近は、写真を撮るのも、昔と比べると好きだ。と言っても、本格的なカメラを持っているわけでも、カメラやレンズの知識があるわけでもない。ただ携帯電話・スマートフォン等で撮るだけのものである。それも作品というつもりはなく、記録としての意味合いが大きい。
 
そして、かつてはサッカーも好きだったが、これは極めるでもなんでもなく、見るのは日本代表の試合だけ、それもテレビ中継で。
 
それで、だ。美術館へ行くのが好きだと言うと、たいして詳しくもないくせになどと言ってくる人は、まあ、そうはいない (現時点では言われたことはない)。写真もまあそうだろう (その程度の道具や腕で とは、今のところ言われたことはない。むしろ、私よりももっと写真やカメラに詳しい人が、道具がすべてではなく何をどう撮るかだ、と言ってくれたこともある)。詳しくもないくせに、という言い方をされることがある / そういう言い方をする人が結構いるのが、スポーツつまりサッカーであった。
 
もちろん、みんながみんな、そういうことを言うばかりではない。しかし、スポーツに関してだけはなぜか、詳しくもないくせに、とか、その程度の知識で、などと言う人と遭遇する率が高いのである。
 
とはいえ、知識があり長くそれを趣味としているような人の中にも「サッカーだっていろんな楽しみ方がある。Jリーグしか見ない人、代表しか見ない人、海外サッカーしか見ない人、それら全部を見る人、いろいろいるし、知識の深さも人それぞれ。それぞれの楽しみ方をすればいい」と理解を示してくれる人もいる。私自身、そのように思っていたので、以前は、サッカーが好きだとわりと軽い気持ちで書いて(言って)いた。

しかしある時「サッカー全般に詳しいわけでもなく、所詮代表の試合しか見ていないくせに、全然極めてもいないくせに、そんなことでサッカーファンだと言えるのか」と言われ、それ以来、ネット上でも書くのは控えているし、あまり人に言わなくなった。なおかつ、サッカー日本代表がワールドカップで敗退することとなった試合後に、阪神ファンでサッカーは嫌いだという人から、代表選手およびサッカーファンのことを、差別的表現を用いて酷く馬鹿にされ、まさに怒髪天を衝く思いを味わってからというもの、サッカーの話を人とするのが、ほとほと嫌になった。
 
サッカーについて書かなく(言わなく)なったのは、なにも「その人たちの言う通りだ」と思ったとかいうことではない。趣味などというものは、本来人それぞれでいいのだ、と今もそう思っている。それについては、人から何を言われようと変わらない。書かなく(言わなく)なったのは、書く(言う)ことによって、余計な記憶まで蘇ってくるからだ。先に書いたような「その程度の知識でサッカーファンと名乗るな」と一方的な言い方をされたり (こういう言い方をする人はたいていサッカーファンではないが)、サッカーそのものを無闇に馬鹿にされた時のこと。そしてそれらと連鎖して、かつて「どうせ女のサッカーファンなんて、選手がかっこいいからといって見ているだけ、サッカーそのものは見ていない」と決めつけられた時の怒りまでもがまざまざと蘇り、再度噛みしめることになってしまうからである (この言葉に関しては、女性差別的なことと二重の意味においての怒りを感じるため、何年経っても忘れない)。
 
書かなく(言わなく)なったのは、つまりはそういう理由だった。

そんなことで今では、趣味に関する話題になると、映画のことしか言わないようにしているが、しかしそうすると「映画しかないのか」と言われることもあるのだが、それはそれで、どうも納得できなかったりする。

ほかのことだと「極めてもいないくせに」などと言われたりするからこそ、いちばん得意分野のことしか話さないようにしているのに、そうしたらしたで、今度は「そればっかりか」と言われると (しかも、この両極端なことを同じ人から言われる場合もある) 正直、じゃあどうしろと言うのかと思ったりしていたのだが。

ある時ふと気づいた。
 
気楽な趣味については「たいした知識でもないのに」と言われ、その一方で、打ち込んでいて知識もそれなりの趣味については「それしかないのか」と、同じ人から両方否定される。それについて、じゃあどうしろというのかと思ったところで、そもそもそれを言った人は、どうしろとも思っていないのだ、と。

というのも、そういう言い方をする人というのは大抵、ほかのことについても、そういうところがダメなんだとか こうしないからダメなんだとか、他人へのものの言い方が、基本的にまず否定から入る人だったりする。その人の目から見て “ダメだ” ということになれば、何をしていても否定される。こういう、相手のことをなんでも否定する人というのは、結局のところ、多かれ少なかれ/意識無意識に関わらず、その相手を個人として認めてはいないのだと思う。だから、相手の意思ややり方を尊重しない。だからこそ何事にも、自分の尺度だけでことごとくダメ出しをするわけだ。

などと思っていたわけだが、これに関しては、趣味だけの話ではなくなってくるので、ここで趣味の話に戻す。
 

くどいようだが、趣味は人それぞれだと思っている。日々精進してそれを極めたいという人はそうすればいいし、気楽に楽しみたい人はそうすればいいと思っている。仕事にしたいという人は目指せばいいと思うし、仕事とは一切関係なく純粋に趣味として楽しみたいという人はそうすればいいと思っている。生涯をかけるという人はそうすればいいし、ただなんとなくしているだけという人も、それはそれでいいと思っている。多趣味でもいいし、ひとつの趣味でもいい。もっと言えば、別にこれといった趣味などないという場合も、本人がそれでいいと思っているならば、別にそれで構わない。どれが正しいとも悪いとも思わない。なぜなら “趣味” だからである。それは仕事でも義務でもない。人に迷惑さえかけなければなんでもいい、いや、こう言うと誤解されるかもしれないが、もっとはっきり言うなら、“どうでもいい”。人それぞれ好きにすればいい、ああしろこうしろと人から言われてすることでもない、という意味で、である。たとえば、私が趣味で映画を見るからと言って、それによって困る人は誰もいないだろうし、私が映画を見ようが見なかろうが、それによって迷惑を被らない限り、ほかの人にとってはどうでもいいことであろう。つまりはそういうことだ。
 
趣味とは本来そういうものであろうと思っているのに、だ。頭ごなしに否定されたり、こういうところがダメだからもっとこうすべきと言われたりなどして、そのようなことが多々あって、それが思いのほかストレスとして感じられた。それそのものがとにかく好きだ、ということに加えて、日常の疲れを少しでも軽減させたり、一時でも日常から離れたいがゆえの、趣味なのである。趣味に関することでストレスを感じるのは、私にとっては本末転倒である。

そして、本来は人それぞれ好きにすればいいはずであることに関して、ここがダメそこがダメ、もっとこうすべきああすべき、知識もないくせに、その程度で、などと、果たして言われる必要があるだろうか? どう考えても、ないと思うのだ。何度でも書くが、趣味とは人それぞれだ。人それぞれ好きにすればいいことである。 仕事でも義務でもない。
 
だから、前述のようなことを言う人たちのことが、どうしても、行き過ぎだと感じられるのだ。ただ、この点だけは誤解されたくない、と思うことがある。私は、そういうことを言う人たちに対して、“私と同じような考え方をすべきだ” と思ってはいない。その人たちが、趣味に関してどんな考え方を持とうが構わない。構わないが、それを、違う考え方の人間にまで無理にあてはめないほうがいい、と言いたいのである。あなたがそのように考えるのがあなたの自由であるのと同じように、私がこのように考えるのも私の自由であろう、だからあなたの考えを 違う考え方の人間に押し付けるな、と言いたいのである。
 
たとえば。私はそれなりの年数に渡ってそれなりの回数映画館へ通い、それなりの本数の映画を見ているが、だからといってもし、年に1本しか映画を見ない人が   “私は映画ファンだ” と言ったとしても、テレビでしか映画を見ずにまったく映画館へ行かない人が “私は映画ファンだ” と言ったとしても、そのぐらいで映画ファンだと名乗るな、とは一切思わない。何か好きなことをするにしたって、その人の置かれている状況や環境がいろいろと左右する場合もあるわけだし、何度でも言うが、そもそも趣味なんて、別に本人の好きなようにすればいいことだからである。

 
以下は、趣味についての話から派生したことについて。

映画を “見る” ことが趣味であるために、「消費しかしていない、もっと何か作り出そうとするべき」とかつて言われたことがある。その “作り出す” ということに重きを置く考え方もわからないではないが、どこか、なんとなく腑に落ちなかった、というのが正直なところである。
 
行動として そう見えるのかもしれないが、映画鑑賞は単なる消費、というつもりは私にはない。私にとっては、優れた映画を見てそこから精神的に何かを得ること、その映画を通して何かを考えることに、非常に大きな意味がある。そして、映画から受けた印象、残った記憶、それらによって考えた事柄、それら自体が私にとって重要である。見たという事実、見たという行為、そこから精神的に得たものが、形として/物として残らない、というだけだ。私の中には、様々なありようで残っている。私という人間が、映画というものを見ている場合と見ていない場合とでは、違う人間になっていたはず、と思っている。といってもこれは、見ることによって よりよい人間になった、などという意味ではない、いいとか悪いとかの問題ではない。いい悪いを言っているのではない。ただ、見るのと見ないのとでは、とにかく違う。

映画、ひいては芸術というものは、人にそのような影響を与え得るものだと思っている。だから、ただ消費して終わり、という意識はない。だからこそ「映画を見るばかりで何も作り出してはいないのだから、結局はただ消費するだけの趣味ではないか」「何かを作り出さない限り意味がない」と言われても、確かにそうだ、とは思えないのである。
 
それ (=鑑賞のみの趣味は消費する一方であり何も作り出していないのでよくない) を言った人が そのように考えるのは、その人の自由である。考え方を変えろという気など、私にはこれっぽっちもない。それに対して私が思うのは、なぜ、違う考え方の人のことまで、その考え方に当てはめて捉えるのだろうか、ということに尽きる。“作る” ということを重要視するな、と言っているのではない。

 
「映画鑑賞という、鑑賞のみの趣味は、消費する一方で何も作り出していないからよくない」と言った人に対して思うのは、では果たして映画は、映画監督や脚本家や俳優を目指したりという、映画制作を目指す者、そういう、作る側だけのものか?  ということだ。
  

映画とは、芸術性はもちろんのこと、娯楽性も持ち合わせたものである。映画興行と呼ばれ、劇場で大勢の人間が一度に見るという点からも明白である。
 
では、娯楽とは誰のものか。制作する側のプロだけのものでもない、一部のマニアだけのものでもない。娯楽とは、大衆のものである。ジャンルに細分化して捉えず、あくまでも “映画というものそのもの” においては、娯楽としての映画とは、一般大衆のものである。一般大衆とは、映画制作を目指す人や、マニアだけではない。もちろん、作る側だけでもない。映画を見ようと思う/あるいは映画を見ることができる人、いや、今何らかの理由で見られない状況に置かれている人まで、すべて含めて、である。映画とは大衆に向けて作られているものである。劇場で公開する以上、自ずとそうなるものである。制作側に既にいる人・目指している人にとっては、“作りたいもの” “作るべきもの” であろうが、出来上がった作品は、そもそも “見られるため” “見てもらうため” に作られている。もっと言えば、たとえ作っても、誰にも見られなければ、映画として成立しない。作るよりも鑑賞することが目的という人がいるのは、そういう、映画そのものの本来の性質からすれば当然のことである。にも関わらず「見るのは消費しているだけで何も作り出さないからよくない」というのは、映画というもののそもそもの性質を鑑みない捉え方であり、ずいぶんと乱暴な決めつけ方である、という気がする。
 
たとえば音楽。音楽とて、楽器を弾き演奏し作曲をし作詞をするという、それだけのものだろうか? 作っている人は、聴いてもらいたいという気持ちはないのだろうか?

趣味はどんなものでもいいと思っているので、ただただ作るという行為そのものが趣味であり、人に聴かせるつもりは毛頭ない、という人がいようがもちろん一向に構わない。しかし、自然音と違い、“人為的に作り出された音楽” というのは、往々にして、作ること/演奏することのみが目的なのではなく、それを “ほかの人に聴いてもらうこと” も、やはり目的のひとつであろう。
 
必ずしも、“作る” ことただそのものだけが目的ではないはずだ。作るという行為だけが意味あるもので、作られたものを享受すること/享受する側に、何の意味もない、というようなことではないであろう。