“趣味” というものについての長らくの考え事

趣味というものについて、人と話す機会があった時、話した内容について思うことがなんやかやとあったりするわけだが、そのわりに、その なんやかやのほうを話す機会というのが案外なく、かと言ってそれを話すためだけに知人友人に時間を取らせるのもしのびなく、ではそのままにしておくのかと言うと、なんだかとてももやもやする瞬間があるので、そのように置きどころのない考え事を、とりあえず文字にして外へ出そう、と思う。
 
 
マニアと呼べるほどまでの知識を持ち合わせないままでそれを「趣味だ」と言うと、たいして詳しくもないくせに、という反応が返ってくる場合があったりする。私はというと、趣味なんてどの程度の詳しさだろうと熱の入れようだろうと人それぞれ、と思うほうである。なにしろ趣味は、好き嫌いばかり言ってはいられない “仕事” ではない。自分の好き勝手だけには出来ない “仕事” ではないのだから。
 
そのように言う人自身が「自分はどこまでもこの趣味を極めたい、知識も半端なものではいけない、常に精進しなければならない」 と思って実際にそのようにするのは、もちろんその人の勝手である。したいようにするのがいいと思う。しかし、違う考え方の人、たとえば、“極める” などというよりただ気楽に楽しみたいだけの人に対してまでもその考え方をあてはめ、もっとこうすべき、ああすべき、と言ったりする場面に出くわすと、少し行き過ぎではないか、と感じることがある。仕事じゃなかろう、と。なにしろ趣味だ。人それぞれ、好きな形ですればいいのではないだろうか。


私の趣味を例にとって書くと。
 
私は映画鑑賞がことのほか好きで、ほかのことと比べてもっとも長きに渡っての趣味であり、なおかつ、ほかのことと比べてもっとも知識があるといえる趣味が、映画である (知識がある、という言い方はずいぶん大風呂敷を広げた風に聞こえるかも知れないが、なにも人様に誇れるほど深い知識があるなどという意味ではなく、あくまでも自分比である。要するに、ほかのことと比べれば映画がまだいちばんマシ、という程度の意味である)。
 
美術館へ行くのも、最近では以前と比べて機会が減りはしたが好きだ。工芸、彫刻などを見ることもあるにはあるが、もっとも好きなのは絵画作品を見ることだった。
 
最近は、写真を撮るのも、昔と比べると好きだ。と言っても、本格的なカメラを持っているわけでも、カメラやレンズの知識があるわけでもない。ただ携帯電話・スマートフォン等で撮るだけのものである。それも作品というつもりはなく、記録としての意味合いが大きい。
 
そして、かつてはサッカーも好きだったが、これは極めるでもなんでもなく、見るのは日本代表の試合だけ、それもテレビ中継で。
 
それで、だ。美術館へ行くのが好きだと言うと、たいして詳しくもないくせになどと言ってくる人は、まあ、そうはいない (現時点では言われたことはない)。写真もまあそうだろう (その程度の道具や腕で とは、今のところ言われたことはない。むしろ、私よりももっと写真やカメラに詳しい人が、道具がすべてではなく何をどう撮るかだ、と言ってくれたこともある)。詳しくもないくせに、という言い方をされることがある / そういう言い方をする人が結構いるのが、スポーツつまりサッカーであった。
 
もちろん、みんながみんな、そういうことを言うばかりではない。しかし、スポーツに関してだけはなぜか、詳しくもないくせに、とか、その程度の知識で、などと言う人と遭遇する率が高いのである。
 
とはいえ、知識があり長くそれを趣味としているような人の中にも「サッカーだっていろんな楽しみ方がある。Jリーグしか見ない人、代表しか見ない人、海外サッカーしか見ない人、それら全部を見る人、いろいろいるし、知識の深さも人それぞれ。それぞれの楽しみ方をすればいい」と理解を示してくれる人もいる。私自身、そのように思っていたので、以前は、サッカーが好きだとわりと軽い気持ちで書いて(言って)いた。

しかしある時「サッカー全般に詳しいわけでもなく、所詮代表の試合しか見ていないくせに、全然極めてもいないくせに、そんなことでサッカーファンだと言えるのか」と言われ、それ以来、ネット上でも書くのは控えているし、あまり人に言わなくなった。なおかつ、サッカー日本代表がワールドカップで敗退することとなった試合後に、阪神ファンでサッカーは嫌いだという人から、代表選手およびサッカーファンのことを、差別的表現を用いて酷く馬鹿にされ、まさに怒髪天を衝く思いを味わってからというもの、サッカーの話を人とするのが、ほとほと嫌になった。
 
サッカーについて書かなく(言わなく)なったのは、なにも「その人たちの言う通りだ」と思ったとかいうことではない。趣味などというものは、本来人それぞれでいいのだ、と今もそう思っている。それについては、人から何を言われようと変わらない。書かなく(言わなく)なったのは、書く(言う)ことによって、余計な記憶まで蘇ってくるからだ。先に書いたような「その程度の知識でサッカーファンと名乗るな」と一方的な言い方をされたり (こういう言い方をする人はたいていサッカーファンではないが)、サッカーそのものを無闇に馬鹿にされた時のこと。そしてそれらと連鎖して、かつて「どうせ女のサッカーファンなんて、選手がかっこいいからといって見ているだけ、サッカーそのものは見ていない」と決めつけられた時の怒りまでもがまざまざと蘇り、再度噛みしめることになってしまうからである (この言葉に関しては、女性差別的なことと二重の意味においての怒りを感じるため、何年経っても忘れない)。
 
書かなく(言わなく)なったのは、つまりはそういう理由だった。

そんなことで今では、趣味に関する話題になると、映画のことしか言わないようにしているが、しかしそうすると「映画しかないのか」と言われることもあるのだが、それはそれで、どうも納得できなかったりする。

ほかのことだと「極めてもいないくせに」などと言われたりするからこそ、いちばん得意分野のことしか話さないようにしているのに、そうしたらしたで、今度は「そればっかりか」と言われると (しかも、この両極端なことを同じ人から言われる場合もある) 正直、じゃあどうしろと言うのかと思ったりしていたのだが。

ある時ふと気づいた。
 
気楽な趣味については「たいした知識でもないのに」と言われ、その一方で、打ち込んでいて知識もそれなりの趣味については「それしかないのか」と、同じ人から両方否定される。それについて、じゃあどうしろというのかと思ったところで、そもそもそれを言った人は、どうしろとも思っていないのだ、と。

というのも、そういう言い方をする人というのは大抵、ほかのことについても、そういうところがダメなんだとか こうしないからダメなんだとか、他人へのものの言い方が、基本的にまず否定から入る人だったりする。その人の目から見て “ダメだ” ということになれば、何をしていても否定される。こういう、相手のことをなんでも否定する人というのは、結局のところ、多かれ少なかれ/意識無意識に関わらず、その相手を個人として認めてはいないのだと思う。だから、相手の意思ややり方を尊重しない。だからこそ何事にも、自分の尺度だけでことごとくダメ出しをするわけだ。

などと思っていたわけだが、これに関しては、趣味だけの話ではなくなってくるので、ここで趣味の話に戻す。
 

くどいようだが、趣味は人それぞれだと思っている。日々精進してそれを極めたいという人はそうすればいいし、気楽に楽しみたい人はそうすればいいと思っている。仕事にしたいという人は目指せばいいと思うし、仕事とは一切関係なく純粋に趣味として楽しみたいという人はそうすればいいと思っている。生涯をかけるという人はそうすればいいし、ただなんとなくしているだけという人も、それはそれでいいと思っている。多趣味でもいいし、ひとつの趣味でもいい。もっと言えば、別にこれといった趣味などないという場合も、本人がそれでいいと思っているならば、別にそれで構わない。どれが正しいとも悪いとも思わない。なぜなら “趣味” だからである。それは仕事でも義務でもない。人に迷惑さえかけなければなんでもいい、いや、こう言うと誤解されるかもしれないが、もっとはっきり言うなら、“どうでもいい”。人それぞれ好きにすればいい、ああしろこうしろと人から言われてすることでもない、という意味で、である。たとえば、私が趣味で映画を見るからと言って、それによって困る人は誰もいないだろうし、私が映画を見ようが見なかろうが、それによって迷惑を被らない限り、ほかの人にとってはどうでもいいことであろう。つまりはそういうことだ。
 
趣味とは本来そういうものであろうと思っているのに、だ。頭ごなしに否定されたり、こういうところがダメだからもっとこうすべきと言われたりなどして、そのようなことが多々あって、それが思いのほかストレスとして感じられた。それそのものがとにかく好きだ、ということに加えて、日常の疲れを少しでも軽減させたり、一時でも日常から離れたいがゆえの、趣味なのである。趣味に関することでストレスを感じるのは、私にとっては本末転倒である。

そして、本来は人それぞれ好きにすればいいはずであることに関して、ここがダメそこがダメ、もっとこうすべきああすべき、知識もないくせに、その程度で、などと、果たして言われる必要があるだろうか? どう考えても、ないと思うのだ。何度でも書くが、趣味とは人それぞれだ。人それぞれ好きにすればいいことである。 仕事でも義務でもない。
 
だから、前述のようなことを言う人たちのことが、どうしても、行き過ぎだと感じられるのだ。ただ、この点だけは誤解されたくない、と思うことがある。私は、そういうことを言う人たちに対して、“私と同じような考え方をすべきだ” と思ってはいない。その人たちが、趣味に関してどんな考え方を持とうが構わない。構わないが、それを、違う考え方の人間にまで無理にあてはめないほうがいい、と言いたいのである。あなたがそのように考えるのがあなたの自由であるのと同じように、私がこのように考えるのも私の自由であろう、だからあなたの考えを 違う考え方の人間に押し付けるな、と言いたいのである。
 
たとえば。私はそれなりの年数に渡ってそれなりの回数映画館へ通い、それなりの本数の映画を見ているが、だからといってもし、年に1本しか映画を見ない人が   “私は映画ファンだ” と言ったとしても、テレビでしか映画を見ずにまったく映画館へ行かない人が “私は映画ファンだ” と言ったとしても、そのぐらいで映画ファンだと名乗るな、とは一切思わない。何か好きなことをするにしたって、その人の置かれている状況や環境がいろいろと左右する場合もあるわけだし、何度でも言うが、そもそも趣味なんて、別に本人の好きなようにすればいいことだからである。

 
以下は、趣味についての話から派生したことについて。

映画を “見る” ことが趣味であるために、「消費しかしていない、もっと何か作り出そうとするべき」とかつて言われたことがある。その “作り出す” ということに重きを置く考え方もわからないではないが、どこか、なんとなく腑に落ちなかった、というのが正直なところである。
 
行動として そう見えるのかもしれないが、映画鑑賞は単なる消費、というつもりは私にはない。私にとっては、優れた映画を見てそこから精神的に何かを得ること、その映画を通して何かを考えることに、非常に大きな意味がある。そして、映画から受けた印象、残った記憶、それらによって考えた事柄、それら自体が私にとって重要である。見たという事実、見たという行為、そこから精神的に得たものが、形として/物として残らない、というだけだ。私の中には、様々なありようで残っている。私という人間が、映画というものを見ている場合と見ていない場合とでは、違う人間になっていたはず、と思っている。といってもこれは、見ることによって よりよい人間になった、などという意味ではない、いいとか悪いとかの問題ではない。いい悪いを言っているのではない。ただ、見るのと見ないのとでは、とにかく違う。

映画、ひいては芸術というものは、人にそのような影響を与え得るものだと思っている。だから、ただ消費して終わり、という意識はない。だからこそ「映画を見るばかりで何も作り出してはいないのだから、結局はただ消費するだけの趣味ではないか」「何かを作り出さない限り意味がない」と言われても、確かにそうだ、とは思えないのである。
 
それ (=鑑賞のみの趣味は消費する一方であり何も作り出していないのでよくない) を言った人が そのように考えるのは、その人の自由である。考え方を変えろという気など、私にはこれっぽっちもない。それに対して私が思うのは、なぜ、違う考え方の人のことまで、その考え方に当てはめて捉えるのだろうか、ということに尽きる。“作る” ということを重要視するな、と言っているのではない。

 
「映画鑑賞という、鑑賞のみの趣味は、消費する一方で何も作り出していないからよくない」と言った人に対して思うのは、では果たして映画は、映画監督や脚本家や俳優を目指したりという、映画制作を目指す者、そういう、作る側だけのものか?  ということだ。
  

映画とは、芸術性はもちろんのこと、娯楽性も持ち合わせたものである。映画興行と呼ばれ、劇場で大勢の人間が一度に見るという点からも明白である。
 
では、娯楽とは誰のものか。制作する側のプロだけのものでもない、一部のマニアだけのものでもない。娯楽とは、大衆のものである。ジャンルに細分化して捉えず、あくまでも “映画というものそのもの” においては、娯楽としての映画とは、一般大衆のものである。一般大衆とは、映画制作を目指す人や、マニアだけではない。もちろん、作る側だけでもない。映画を見ようと思う/あるいは映画を見ることができる人、いや、今何らかの理由で見られない状況に置かれている人まで、すべて含めて、である。映画とは大衆に向けて作られているものである。劇場で公開する以上、自ずとそうなるものである。制作側に既にいる人・目指している人にとっては、“作りたいもの” “作るべきもの” であろうが、出来上がった作品は、そもそも “見られるため” “見てもらうため” に作られている。もっと言えば、たとえ作っても、誰にも見られなければ、映画として成立しない。作るよりも鑑賞することが目的という人がいるのは、そういう、映画そのものの本来の性質からすれば当然のことである。にも関わらず「見るのは消費しているだけで何も作り出さないからよくない」というのは、映画というもののそもそもの性質を鑑みない捉え方であり、ずいぶんと乱暴な決めつけ方である、という気がする。
 
たとえば音楽。音楽とて、楽器を弾き演奏し作曲をし作詞をするという、それだけのものだろうか? 作っている人は、聴いてもらいたいという気持ちはないのだろうか?

趣味はどんなものでもいいと思っているので、ただただ作るという行為そのものが趣味であり、人に聴かせるつもりは毛頭ない、という人がいようがもちろん一向に構わない。しかし、自然音と違い、“人為的に作り出された音楽” というのは、往々にして、作ること/演奏することのみが目的なのではなく、それを “ほかの人に聴いてもらうこと” も、やはり目的のひとつであろう。
 
必ずしも、“作る” ことただそのものだけが目的ではないはずだ。作るという行為だけが意味あるもので、作られたものを享受すること/享受する側に、何の意味もない、というようなことではないであろう。