もっとほかに言いようがある

かなり以前から思っていたことであるが。

 
映画評などを読んでいて、主演の誰それよりも助演の誰それの演技のほうがすごかった、というようなことが書いてある場合に、“誰それ(助演)が誰それ(主演)を食ってる” という表現をされていることがたまにあるのだが、その表現が、結構嫌いだ。 
 
そもそもまず “食う” という言葉が、本来の意味で使う場合も含め、日常的に使われる言葉なわけだし、そういうことで言えば、“食ってる” という表現それ自体は特別目新しいものでもないのかもしれないが、しかしこれが自分にとっては非常にひっかかる表現であるため、なぜこれをひっかかると思い始めたのかという、そのキッカケとなった映画まで覚えている。
 
私がこの表現にひっかかった最初は、アンジェリーナ・ジョリーがアカデミー助演女優賞を受賞した「17歳のカルテ」での演技について、“この作品でのアンジェリーナの演技は、主演のウィノナ・ライダーを食ってる” と表現されているのを読んだ/聞いた時だ。
 
なんともいやな印象の表現であるかのように思えた。まず、片方を褒めるために、もう一方を実際以上に “たいしたことない” と評しているかのように感じられる。片方を持ち上げるためにわざわざもう一方を落とさなくても、褒めたいほうだけを、言葉を尽くして褒めればいいではないか、と思ってしまう。
 
そして、これは読む/聞く人によって感じ方が違うかも知れないが、私の感覚では、“食ってる” という表現自体が下品に思える。食うと言わずに丁寧に言え、などという意味ではない。そうではなく、もうちょっとほかに言いようがあるだろう、と思ってしまうのである。
 
 
映画「17歳のカルテ」に対してこの言い方が使われるのを聞いた/読んだのがキッカケでひっかかり始めたのであるから、この「17歳のカルテ」を例に取るが。
 
まずアンジェリーナ・ジョリーが演じたのは、突拍子もない行動を取りつつも人を惹きつける人物、という役柄だった。もともと強烈な設定である役柄を、技術と独自の持ち味ある俳優が演じ、なおかつ役柄と俳優がぴったりくれば、当然のことながら、観客にとっては魅力的に見えることだろうと思われる。
 
一方、ウィノナ・ライダーが演じたのは、アンジェリーナが演じた人物の突拍子のなさに戸惑いながらもそこに人としての魅力を感じ影響されるが、本人は引っ込み思案であまり主張しない、という役柄だったと記憶している。この場合、強烈なアンジェリーナの演技に対し、ウィノナが抑えた演技をするのは当然ではないかと思われる。
 
つまり、それぞれの役柄の人物設定に見合った演技を、ということで、両者はああいう演技をしたはずであろう、と。確かに、俳優それぞれの個性によって、役柄への向き不向きはあるかとは思う。例えばもし、この2人が演じる役柄を逆にしたら、それぞれの個性を生かしきれないような気もする。しかしそれはつまり、キャスティングの時点で、役柄に合った俳優があてられていることの表れでもあるだろう。
 
そんなふうに、役柄に見合った、必然性のある演技がされていると思うのだが、強烈さが目立つ役柄を演じた俳優 (=この場合はアンジェリーナ) を褒めるために、役柄自体がそういう強烈さのないものであった方の俳優 (=ウィノナ) が “食われてる” と言われなければならないのが、なんとなく解せないのだ。
 
もし、この作品におけるウィノナの役柄を、アンジェリーナ並みに強烈に演じたとしたら、と想像すれば、とてもわかりやすい。もしそうだったとしたら、人物像の設定に合わなくなる上にアンジェリーナの役柄ともぶつかってしまい、不自然になるだろうことは容易に想像できる。
 
つまり、このふたつの役柄と演技は、食ってる/食われてる という関係性じゃない。どちらも、その役柄に見合った演技を求められ、それを目指した結果であろう。
 
 
これがキッカケとなって、以後、俳優の演技が 食ってる/食われてる という表現で評される事に、いくらかの不快感を覚えるようになった。一方の評価を下げたことによる対比でもう一方を褒めるかのような形が、巧い批評だとはどうも思えないのである。こんなことを言うと、文章のプロでもないくせに何をえらそうに、と思われるかも知れないが、しかしそれでもやはり思う。一方を持ち上げるためにもう一方を落とすのはいいやり方じゃない。褒めたいなら、褒めたい対象のために言葉を尽くせ、と。