なぜ今書いたか

前回書いたことについて。

 

antoine.hatenablog.jp

 

“なぜ今書くか等の理由も書いておくほうがいいとなればそれは次回にでも書く ” と前回の冒頭で言ったので、それだけはいちおう書いておくことにした (以下、文中における人物の呼び方は前回と同じ)。


とにかく、長いこと我慢した。ことの発端は2012年。言うならもっと早くに言えばいいだろうものを、と思われるかもしれないけれど、ではなぜそんなに長く我慢したかといえば。


ひとえに、私が何も言わなければほかの人にはわからないことだったから、というのに尽きる。あえて言ってまで波風立てないほうがいいだろう、というのが まず あった。このことに限らず、人との間に波風を立てるのが嫌だ、という意識が昔から強い。それも、言いたいことがある場合にそれを言うか言わないか決めるには、自分の気持ちよりまず状況などを優先する。つまり、言えないわけではなく、“今この状況では言わない方がいい” と思って我慢することが多々ある。だから、このこともずっと我慢していた。


はじめに問いただされて説明し、その説明にいったんは納得したはずのcさんがふたたび怒り出した時、まさかそれがその後も続くとは思わなかったので、我慢した。一度で済むことと思ったからこそだった。のちに、ことあるごとに断続的/遠回しとはいえ嫌味ややつあたりがあった際にも、いくらなんでもそう長くは続くまい、そのうちやめるだろうと思い、我慢した。ほかの人に対して何か吹聴されたらしき時にはさすがにかなり腑に落ちなかったけれども、その時も結局、我慢した。そもそもの発端は★さんと私が会った会わないという話だったわけで、そのわりには★さんと私が顔を合わせる機会がなくなって以降もやつあたりがあり、これはもはや、当初の理由を逸脱してただ単に負の感情を私にぶつけているだけではなかろうかと思いつつも、我慢した。なにも、その状態で別にいい、と思っていたわけではなく。波風を立てたくないというただその一心で、我慢した。


とにかく、我慢して我慢して我慢して我慢した。しまいに、“いったいいつまでやつあたりが続くのか” と、我慢できなくなった。


とはいえ、もうこれ以上我慢できない、となったのは、実際のところは昨年である。件のSNS的なものにて、またもや (遠回しとはいえ) 嫌味を書かれた時のことだ。いくらほかの人にはわからないような書き方だとはいっても、何について言っているのかがわかってしまう当事者 (=私) にしてみれば、聞き流せないような表現があった時のことだ。でもその時は、我慢できないからはっきり言おう、というのではなく、我慢できないから、そのSNS的なものを使うのを私がやめた (一時)。


我慢できない、となって一時そのSNS的なものをやめ、とはいえ私がそのSNS的なものを使っているのはもともとまったく別の目的であったから、数ヶ月経って、さすがにもうこういうことはなくなるだろう、と思い再開したら。断続的ではあるけれども、その後もまた、遠回しなやつあたりがあった。そのSNS的なものの使用を一時やめる前よりもさらに、“もう我慢できない” と思った。


そうやって、我慢できない、と さらに強く思ったにも関わらず。それが昨年後半のことであるが。それでも結局、また抑えた。波風を立てたくない、それに加えて、“めんどくさい人” と思われるのが目に見えていたからだ。


なにしろ、ほかの人には知られていないことなわけだ。2012年からやつあたりが続いていたとか、それをずっと我慢してきたとか、ほかの人の目には、そんなことわからない。そういう過程をまったく知らないほかの人から見れば、ずっと続いていたことというより、突然数年前の話を持ち出したかのような印象に映るだろう、と。つまり、私のことは “古い話を唐突に蒸し返すめんどくさい人” にしか見えない、と。それは容易に想像がつく。しかし実際は、断続的ではあっても続いていたわけで。それで、もう我慢できない→抑える→やはりもう我慢できない→また抑える、を繰り返し。


最終的に、もうだめだ本当にこれ以上は我慢できない、となった。波風は立てたくないし、そのSNS的なものの上でやり取りのある人たちから “めんどくさい人” と思われて敬遠されるのも残念だ。残念だけれどもしかし、ここまで我慢した上でそれでも我慢できなくなってしまってはもう、波風が立っても “めんどくさい人” と思われても仕方がない、今後もやつあたりが続いたとして、それを我慢し続けるのと ここではっきりさせて “めんどくさい人” と思われるのとどっちを取るかといったら、“めんどくさい人” と思われるほうを取るしかない、となった。


(ちなみに、今後もやつあたりが続くかどうかはさすがにわからないのではないか、いくらなんでもそんなには続かないのではないか、と思われるかもしれないが。私だってそう思った。そう思ったからこそ我慢した結果が、これである。私の立場からすれば、へたしたらまだ続くかも、と疑いたくもなるというものだ。)


それで、2012年から (断続的とはいえ) 続いたそういうこと (=遠回しな嫌味、やつあたり等) を今後一切やめてもらうには、詳細まで あえてはっきり書くぐらいしかないだろう、となった。せめてこちらの言い分もどこかで言っておかないと、完全に一方的なままになってしまうと思った、というのもある。だから書いた。これで “めんどくさい人” と思われたとしても、もう我慢できない以上は致し方ない、と思いながら書いた。


このことがもし、cさんがやつあたりなどの行動には移さず、内心で私を嫌っているだけだったとしたら。この人とは合う/合わないとか、そんなことは誰しもある。だから内心で思っているだけなら、それがどんな理由で、どんな感情であろうとも、一向に構わなかった。人がただ内面に持っている感情にまで、とやかく言う気などないからだ。ただ思っているだけなら、それがどんな感情であれ他人がどうこう言うことでもない。どうしても合わない人とは、それなりの距離を取って、いい意味で “やり過ごして” いけばいいわけだし。


が、ただ単に “そういう感情を持っている” というだけにとどまらず、実際の行動に移されれば、話は別である。このことに関しては落ち度はなかったと思っている私としては、やはり腑に落ちない。それが、ことの発端だけでなく、その後も続いたから尚更だった。最初の一度で終わっていれば、その場限りの我慢で済んだだろうけれど、続けばその分我慢も長引く。結局、やつあたりが長く続いた、というのがダメだった。最初のことだけで終わっていれば、私だってわざわざここまで書きはしない。


件のSNS的なものにて日頃やり取りしてくれている人たちに、自分自身について “めんどくさい人” という印象を持たれるかもしれないのに今回これを書いたことが果たしてよかったのかというと、いったいどうかとも思う。思うがしかし、致し方ない。いわれのないやつあたりをされ続けることにはもう、つくづく辟易した。


人から何を言われようが何を書かれようが、一切のことに我関せず、と受け流せるような心の広い人も、世の中にはいるのだろうけれど。私はそこまで心に余裕のあるタイプじゃない。なんでも受け流せるような人間ではないのだ。それでも、私の側に落ち度があるとなれば、文句を言える立場でもないからと、我慢をし通したかもしれないけれども。落ち度がないと思えば、それは当然、受け入れ難い。受け入れ難いと思いながらも無理矢理我慢して我慢して我慢して我慢して、それで最後まで我慢し通せるかというと。それはやはり、無理な話であった。無理な我慢の行く末は “爆発” である。本当は、こういうことを我慢できるタイプではないのだ。ただただ、波風を立てたくないがゆえに無理矢理我慢してきた、というだけで。我慢のし過ぎに、いいことなどひとつもない。いらぬ我慢はしないほうがいい。


(その人たちがこれを読んだとすれば、であるが) 私のことを実際に知っている人や、件のSNS的なものにて日頃から私とやり取りしてくれていた人たちから、“めんどくさい人” と思われて敬遠されるだろうことは予想した上で書いた。さぞかし長いと思われただろうが、(断続的とはいえ) およそ3年以上続いたやつあたりに関しておよそ3年以上続けた我慢を、全部と言っていいほど吐き出したのだ、致し方ない。


わざわざここまでしたのだから、これでもう、やつあたり的なことはすべてやめてくれるだろう、と思ってはいる。それを一切やめていてくれる限りは、これにてこの話は終わりだ。今後、一切何もない限りは。

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