追加 (あとからのことについて)

始まりの理由が些細なことだと、その印象に引っ張られてその事柄全体をも些細なことだと思われがちだけれども、必ずしもそうとは限らない。


何を言いたいかというと、だ。些細な理由で始まった嫌がらせであっても、その嫌がらせが《3年以上も続く》ということは《理由と同じ程度の “どうでもよさ” 》じゃない。《なぜこんな些細な理由でここまでされなきゃいけないんだ》という理不尽さ、とばっちり感と相俟って、される側にとってはじゅうぶんストレスの原因となる。

 

これについて、前回までに書いたこと

antoine.hatenablog.jp

 

前回でこれについて書くのは最後にすると書いたのになぜもういちど書いているかというと。これを書いたことについて、“あとからグチャグチャ言う” だの “後出しジャンケン” だのと書かれたり、誰それが何々と言っていたよという話が、やはり耳に入ってきたりするためであるが。


そう “思われている” だけなら、別に構わない。基本的に、腹の中だけならなんと思おうとその人の自由である。だから “思われている” だけならこちらだっていちいち反応しないが ( そもそも思われているだけならこちらからはわからないのだから反応のしようもない )、書かれたりなんなりすれば別だ。しかもそれが、あえて名指しを避けていたりしたら、“3年以上嫌がらせを続けた人と同じやり方じゃないか” ぐらいのことは私だって思う。


で、今後こういうことで我慢するのはもう絶対にやめよう、と決めたので、今までの自分なら我慢したであろう場合でもいちいちそれを拾い、思っていることを書いていくことにした。《我慢しない訓練》の一環である。


これまでなら、何か言われ(書かれ)ても、その場の状況とか波風を立てないためにという理由で、我慢してきたわけだ。が、そのせいで “言いやすい相手” という印象を人から持たれている ( =あまりそう思われすぎると、場合によっては相手の発言が悪い方へエスカレートする )という感じが、正直言うと昔からあった。


ということで《我慢するな》《説明/反論はすぐしろ》という決め事を自分に課した。とにかく、我慢するくせがすっかりついてしまっているので、無理矢理自分を鼓舞し、意識的にでもそういうふうにしていかないと、急にはなれない。最終的には、“こいつに何かひとことでもケチをつけようものなら10倍くらいになって文句が返ってくるから、もう何も言わないでおこう” と人から思われるくらいになるのが目標。


( なにしろ、3年以上続いたやつあたりに対し、ここへきてとうとうぶち切れたのだ。2度切れるも3度切れるも最早同じである。サスペンス映画の犯人が「ひとり殺すもふたり殺すも同じ」と言う、あれだ。我慢したせいでもやもやが継続するくらいなら、さっさと反論したほうがいい。)


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で、前回までに書いたことについて。《3年以上続くやつあたり/嫌がらせ》が、とにかくもう我慢できなかったから書いた。そのぐらいしないと、やつあたりをやめてくれないと思ったからだ。だから、“なにもこんな書き方しなくてもいいのに…” と、読む人によってはひくかもしれない書き方を、わざとした。


たとえば。仮に、“何もここまでしなくても…” と(両者を)知っている人から思われ、(私を)敬遠されたとしても、その人はきっと、ただ黙って離れていくだけ。それを理由に3年以上嫌がらせなんて、当たり前だがふつうはしない。だったら、読んだ人がひくぐらいの書き方をわざとしてでも、実際に3年以上続いている嫌がらせがなくなるほうが、よっぽどいい。敬遠されるかもしれないことについては、残念でも諦めるしかない。そのどっちがしんどいか、だ。


“そのぐらいしないと、やつあたりをやめてくれない” というのは、実際その通りであったわけだし。なにしろ、まさかこんなこといつまでも続けるわけがない、そのうちやめるだろう、と思ってされても我慢していた当時は、結局やめてくれなかったわけだ。そのまま、まさかの3年超え。


それが、今回書いて初めて、向こうがそれを認めたというのは、これまで向こうが《反論してこない相手だから自分勝手が通ると思っていた》《この分ならやつあたりを続けても人にバラさないだろうから大丈夫だと思っていた》ということの表れだろう、と。


こういうところからも、やはり “波風を立てないように” となんでも我慢していればいいというものでもない、と思った。


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で、こちらがいくら我慢していたとしても、悪くなかったとしても《今になって言った》ということ自体をよく思われない場合もあり得る、とは思っていた。


たとえば、前回までに書いたことをどうでもいいみたいに言う人がいたとして、だ。あくまでも例えだが、その人が「3年ぐらいじゃ我慢のうちに入らない、10年我慢してから初めて “我慢した” と言え」と言ったとする。これはあくまでも例えである、例え。そういう理由で「3年以上嫌がらせされたぐらいのことどうでもいい」と言われたとしたら、はぁそうですか、と答える。別に “10年我慢” に同意したわけではない。ただ、この人はそういう考えなんだな、とは思う。“10年我慢が当然” という感覚の人が “3年くらいたいしたことない” と言ったとしたら、いい悪いではなく、意味はわかる。


しかし、前回書いたことを “後出しジャンケン” だなどと書かれた場合は別だ。


後出しジャンケン。どちらが何を出すかお互いわからないという、もともとは公平な状態であるはずのジャンケンで、片方が相手の出方を見てから自分の手を決める、というのが後出しジャンケンであるが。今回私が書いたことをそれに例え、“あとからグチャグチャ言う” だの “後出しジャンケン” だのと書かれたわけだが。


後出しジャンケンは、上に書いたような “公平なジャンケンができる状態” がまずあってこそ、初めてできるわけだ。では、片方がそれを我慢しているのをいいことに、もう片方が自分勝手な理由で一方的に嫌がらせを続けている状態を公平と言えるかどうか、であるが。言うまでもなく、一方的である時点で公平じゃないことは明白。つまり、“公平なジャンケンができる状態” じゃない。つまり、だ。一方的に嫌がらせをしていた人に対して、やられた側が我慢しかねて反発することを、後出しジャンケンとは言えない。


そしてそれを書いた人が、私を名指ししてはいないわけだ。だったら断定できないだろう、と思われるかもしれないが、私とて何も、それっぽいことを書く人を誰彼なしに闇雲に疑ってかかっているわけではもちろんない。十中八九、私が書いたことを言っているな、と判断できる要素 (本文以外にも) が揃っていたからこそそう思った。残りの “一” は、名指ししていない限りは実際断定できない、だからしない、というだけのことだ。腹の中では間違いないと思っている。そして、偉そうなこと言うわりに名指しはしないとはこれまたずいぶん卑怯だな、とも思っている。腹の中で。


この人は、上に書いたようなわけでこの後出しジャンケンという例え自体がそもそも成り立たないことには気づいていないのだろうか、名指しせずにただ気に入らないとだけ書くのが件の3年以上続いた嫌がらせと同じやり方だということには気づいていないのだろうか、そのやり方で偉そうなことを言っているご自分についてはどう思っておられるのだろうか、などと考えた。


で。ここはもう1回私が切れとけ、と思った。最初のほうにも書いたが、1度ぶち切れたら2度切れるも3度切れるも最早同じである。《我慢しない訓練》が必要、というのもあった。それで、その 後出しジャンケンというのに反論した。もちろん《直接》の返信で。そりゃあ、切れたといったって言葉遣いには気をつけたけれども。


とりあえず、こちらは直接返信したわけだ。ということでそのあと、それへの返信がこないか、今か今かと待った。自分に《我慢するな》《説明/反論はすぐしろ》と課したわけだし、この時は最初にぶち切れた時のテンションも比較的保ったままでいる。それで、さあ返信くれ、まだか、さあくれ、どんな内容でもいい、さあさあ、と手ぐすね引いて待っていたのであるが ( ちなみに、その日ある映画を見た際のテンションもそのまま保っていた )。


が。後出しジャンケンの人からの返信はなかった。別に「あなたのことを書いてるんじゃないですよ」という返信でもよかったのであるが。もしもそれが、本心ではなかったとしても、だ。なにしろ、人を批判する時に名指しをしない、というのは、批判した相手から反論や説明をされた時に「あなたのことを書いてるんじゃないですよ」と言うための逃げ道としてであろうと。だからこそ、違いますよ、という返信がくることだってこちらも最初から想定しているのだから、たとえそれがその人の本心ではなかったとしても、言われればそれを否定まではしない。名指ししていないという点では、それも成り立つわけだし。だから「そうですか、違いましたか」云々と返すだろう。腹の中では “そうだと判断できる要素が揃ってたんだからそれはないだろう” と思っていたとしても、だ。結局、名指しせずに書く/書かれると、そういうことになるわけだ。


だからそれこそ、たとえ嘘の内容の返信でもよかったのだが、なかった。ただでさえ、名指しをしないという《反論封じ》をしていたのだから、そこまでしたのに結局反論された限りはもう正面から返信したらいいんじゃないですか、と思ったが、なかった。可能性としては、私からの返信をそもそも読んでいないとかいうことも、もちろんあり得る。


が。こりゃ私の最初の返信自体は読んだんだな、と思われる反応が、文章による返信ではないものの、わりとすぐにあった。


ということは。私の最初の返信は読んだんだろうおそらく。だったら、それに対して「あなたのことを書いてるんじゃないですよ」という返しだってしようと思えばできただろうおそらく。しかしそれはなく。


こちらは真正面から返信したにも関わらず、そのような反応 ( =私からの返信を読んだのだろうということはわかったが、文章による返信ではない、別の反応があったのみ ) だったので。


つまりは「あなたのことを書いてるんじゃないですよ」とは言い切れなかったんだな、と こちらで勝手に判断した。それともあれか、後出しジャンケンという例えがうまくなかったとようやくお気づきになったか、そしてもうほかの例えも出てこなかったか、と こちらで勝手に判断した。


このような ↑ 私の言い方はいくらなんでも失礼ではないか、と思われるかもしれないが、ここでわざわざこんな言い方をして、何を言いたいのかといえば。結局は、何も言わなければ勝手なことを言われる、ということだ。↑ こんなふうに。


これ ( =何も言わなければ勝手なことを言われる ) はなにも、後出しジャンケンの人のことだけを指して言っているのではなく、私にもあてはまることだ。だからこそ、思っていることをガンガン言うとか《我慢しない訓練》とかをしようとしているわけだ。これまでなら、たとえむかついても、それを言えないからというよりは、相手が名指しを避けるいう《反論封じ》をしているせいで仕方なく我慢したであろう “あとからグチャグチャ言う” “後出しジャンケン” という言い草にわざと直接反論したのも、訓練のひとつだ。最終的に、“こいつに何かひとことでもケチをつけようものなら10倍くらいになって文句が返ってくるから、もう何も言わないでおこう” と人から思われるくらいになるのが、目標なわけだから。


で。3年以上続いたとか我慢したとかどうでもいい、嫌がらせされたとかどうでもいい、と言う人がなぜそう思うのか、理解した。それが “平気な人” だ。


平気と言ってもいろいろある。“自分も同じような嫌がらせをする側かもしれないから平気” “何年嫌がらせされても我慢できるから平気” “人から嫌がらせされてもなんとも思わないから平気” 等。そのような人であれば、私の書いたことなどそりゃあ “どうでもいい” となるだろう。なっても不思議じゃない。でも私は何年も我慢するのは平気じゃないし、あんな理由で人から3年以上嫌がらせされ続けことも平気じゃない。そして、ここまでするような人にはこちらもそれなりのことをしないと、へたしたらまだまだ続くかもしれない、と思った。だから書いた。


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ちなみに。名指ししないのは《反論封じ》だと書いたが、私とて、すべて何もかもをきっちり直接の返信にすべき、などとは言っていない。たとえば、世間話的なことや趣味に関する話などで、相手に直接返すほどではないことだからとあえて返信にせず名指しもせずに書いたとて、それでやり取りしている本人たちの間で通じているならば別に問題はない。その手の話なら。


そういうことではなくて、批判や文句こそ直接がいい、と言いたいだけだ。《当事者にとっては何について書かれているのか明白なのに、事情を知らない人にはわからないようにするためあえて名指しされておらず、名指しされていなければ表立っての反論もしづらい》という状態でやつあたりを書かれてきた者としては。


だから、たとえ文句でも、名指しあるいは直接の返信であれば、もし私に向けて書かれたとしても腹は立たない。「なんて真摯な態度だ」と思う。それはこちらにとって《説明/反論する機会ができた》ということだからだ。そしてその人は、反論をくらうかもしれないのに真っ向から文句を言ってきているわけだ。ほのめかしなどせずに。それに対して、腹を立てたりするわけがない。


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ところで今回のこれは、中盤にある “さあ返信くれ、まだか、さあくれ、どんな内容でもいい、さあさあ、と手ぐすね引いて待っていた” 時のテンションにわりと近い状態にまで自分を持っていって書いた。何か失礼でもあるかのように読める部分があるとすれば、たぶんそのせいだ。とりあえず、《我慢しない訓練》は継続中である。